最近、多くの仲間からシリコンバレーの様子や実体験を聞き、自身が実地で触れて来たイスラエルの方々のマインドセットと共通する部分が非常に多いと感じている。

今回は、彼ら『スタートアップ民族』と私達日本人との比較を通じて考えた「日本人の役割」について話題を共有させて頂きたい。

結論から書いておくと、彼らは「始める」役割で、私達は「終わらせる」役割を持っているのではないかと。

【サイクルの違い】

彼らは、チャレンジ精神とスピード感を重視し、目的を持って自ら変化を起こし、短いサイクルをスピーディーに回すのが得意だ。

一方、私たちは、自ら動く事は稀で、常にあるがままを受け入れ、情勢を安定化させ、時に無自覚に、非常に長いサイクルで着実に物事を押し進めるのを得意としてきた。

「未来のあるべき姿」という目的に向かう思考を持った彼らと、「先の事はわからない」というある種の「あきらめ」とも言えそうな思考に基き、「今の最善」の積み重ねを延々と続けようとする私達。
目的に向かって演繹的に行動する彼らと、現状を帰納的に積み上げて行動する私達。

前者がいわゆる「破壊的イノベーション」に繋がるのに対して、日本人の特性は世界の共通言語ともなっている「カイゼン」に代表される「持続的イノベーション」に繋がり、その特性を生かした日本型の大企業を多く作り上げてきた。

【失敗はリスクなのか】

しかし、「失敗が最大のリスク」とでも言わんばかりに極度に道を外れることを恐れる傾向が、ある種の閉塞感を日本列島全体に漂わせてもいる。

かつてのJALや、SHARPも、TOSHIBAも、苦境に立たされる日本の大企業の多くが失敗を恐れ、つつみ隠すために粉飾に手を染めた。敷かれたレールから外れない様に付かず離れず前の人の後ろを歩かなければならない社会の圧力が、多くの自殺者を生んでいる様にも見えるし、実際に「失敗した人」と思われてしまうと、急に風当たりが冷たくなるのは、ホームレスの方々へのある種の差別意識などからも見て取れる。

まず、この空気感の打破は急務であろう。

一方で、『スタートアップ民族』の彼らは失敗してもまたチャレンジをする。まるでそれが当たり前かの様に。失敗とはGive Upの事であって続けている限りは失敗ではないという。
どうして、私達が極度に嫌うリスクに、彼らは怯まずに立ち向かえるのだろうか?
これは「勇気」なのだろうか?

実の所、彼らが勇猛果敢で、極端なリスクテイクをしているわけではなく、私達との違いは「失敗をリスクと思っているかどうか」という前提条件の違いが大きい様に思える。

「目の前の問題を楽しもう」
「最近どんな失敗をした?」
そんな掛け声や日常会話が成立する彼らは、失敗を全くリスクだとは考えていないのだと思える。

「リスクテイク」ではなく、そもそもリスクではないのだ。

【役割の違い】

攻めと守り、陰と陽。その様な言い方もできそうな、この方向性の違い、行動様式、思考様式の違いは、一体何を意味しているのだろうか?

私達、日本人はどんな宿命を負い、国際社会でどの様の役割を果たし得るのだろうか?

近代史を少し紐解くと、これまで国際社会で様々にルール変更が行われてきた中で、革命が起こってルールが変更され、時に大災害に見舞われながら、日本はそのサイクルの1番最後に輝き、次の新しいサイクルの起点が育まれる土壌を形成してきた様に思えてくる。

極端に失敗を恐れるが故にスピードが遅く、1番最後に動き始めるわけだが、その分、時間をかけて観察し、改善点を見出し、磨き上げられた成果物は、格別の品質で生み出され、光り輝く事になる。

彼らが、カオスから目的ベースで「現象」を見つけ、あるいは産み出し、それが少しずつ社会に浸透する中で構造化されて行く過程で、それを見届けながら、1番最後に動き出した日本人は、その構造をこれ以上の進化が難しいレベルにまで最適化し、昇華する役割を担っている、そんな言い方もできるかも知れない。

【例①】帝国主義の終焉
賛否はあれど、先の大戦における日本の役回りが、帝国主義を終焉に向かわせる原動力となり、多くの植民地が独立に向かうきっかの一つであった事は間違いないだろう。
特攻に象徴される様に「国防」の意識が頂点を極めた瞬間であったのではないだろうか。

【例②】工業社会の終焉
イギリスで起こった産業革命を起点としたものづくり・大量生産方式を極めて高度経済成長を謳歌した日本。一つの頂点として、半導体の世界シェアのうち半分を生産するに至っていた。
これが工業社会を情報社会へと向かわせる素地を作ったと考えても的外れでは無いだろう。

【一番最後に、一番遠くまで行くこと】

日本は最後にやって来て、古いものに花道を与え、次世代の目を育む土壌を形成する役割を持っている様に思える。もしかしたら、先の東日本大震災により、我々は原子力を終わらせる宿命すらも背負ったのかもしれない。
例えば、核融合発電の実用化への貢献が有れば、それを証明することになるだろうか。

スポーツでも、水泳やフィギュアスケートの様に、日本の選手が遅ればせながら努力し、キャッチアップする度にルール変更が行われたかのような現象も見られる。

ルールがシンプルなマラソンの様な競技だと、フルマラソンくらいまでだとアフリカ勢にかなわないけれど、実は100kmレースの世界記録は男女共日本人である。
そしてもっと長距離でも、むしろ超長距離でこそ実力を発揮できる可能性を、アースマラソン完走者の間寛平氏がみせてくれた。

「極東」という表現にある通り、1番最後に出発し、砂漠を越えて1番遠くまで来た民族が日本人だった様にすら思えてくる。

【これから、何を終わらせるのか】

昭和天皇のお言葉をかりるならば、時に「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」ながら、時に、役割に見合った褒賞を得ながら、我々はこれからどこに向かうのか。

これを見出す為の「日本人に見合った問い」として『何を終わらせたいか』という、攻めではなく守りの視点に、私は様々な可能性を感じている。

何を終わらせたいか。

格差社会?貧困?暴力?環境汚染?外交問題?
終わらせるべきものは多い。

奇しくも私達は、人口減少と超高齢化という課題に「1番先に」立ち向かわなければならず、「過剰になったものの情勢を安定化させ、昇華する」といった私達の特性を踏まえて考えると、運命を感じずにはいられない。
この課題の解決が見えた時、健康の格差の不安が終わり、誰もが何歳であって平等にチャレンジの機会が持てる、そんな新しい時代が始まる土壌が形成されるのかも知れない。

この中で、スタートアップもイノベーションも、目的の為の手段でしか無いことを忘れてはならない気がしている。
もちろん、失敗を歓迎し、スピード感をもってチャレンジを繰り返す人、そしてそれを許容する環境の出現は大歓迎だし、閉塞感を打破すべく、私もその様な人で在ろうと努めている。しかし、目新しそうなものばかりに目を奪われるよりも「すでに持っているものに気がつく」事も、私達にとって重要なのではないだろうか。

日本人らしく、受け継いだものを磨き上げる事で、いつの間にか解決できてしまう様な事もあり得ると思えてならないからだ。

【最後に】
あなたは、何を守るために
「何を終わらせたいですか?」

☆行動のヒント

・失敗はリスクではない
・求められている「役割」を演じてみる
・陰陽は振り子の両端である

最後までお読み頂きありがとうございました!

宮木俊明

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